2009年06月16日

本国内であればマスクや薬の入手は容易であるが

日本国内であればマスクや薬の入手は容易であるが、他の国ではそうとは限らない。特に欧米では工事現場や病院等の特定の職場で働く人間、もしくはよほどの重病でない限りマスクをする習慣がないため、奇異な目で見られるということもある。街角でポケットティッシュを配るなどのことも行われてはいない。

その反面、日本では処方薬となっている第二世代抗ヒスタミン薬が、国によっては一般の薬店で買えるなどのこともある。しかし、それが自分の体質に合っているとも限らない。特にヨーロッパでは、当地の伝統医療であるホメオパシーのレメディを勧められることもあるという。

これらのことにより、花粉症患者が事情がよくわからない海外へ訪れる場合は、シーズンを問わず、念のために自分に適した薬とマスク程度は持参したほうがよいといえる。一般に花粉症はきわめてまれと考えられている、いわゆる南洋の島などに観光旅行に行ったさいにも、原因不明の花粉症様の症状に苦しめられたとの情報もある(多量に栽培されているマンゴーやサトウキビなどによる可能性がある。これは国内でも、南方へ旅行した際に同様なことが起こる可能性がある)。

特に病院で抗アレルギー薬の処方を受けている患者が、シーズン中に短期(1週間前後)の旅行を行う場合は、その効果を減弱させないためにも、旅行中も薬の服用を欠かさないほうがよい。やや長めの旅行であれば一時中断してもよいが、帰国時が花粉症シーズンであるならば、その数日前から予防的に薬を服用しておくとよい。これは初期治療と同じ原理である。
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但し、国によって使用が許可されている薬と禁止されている薬は当然違っている為、渡航先の国がその薬の所持を許可しているかどうかを出来るだけ事前に確認しておく事が望ましい。日本では普通に処方されていても当該の国や州では違法、と言う扱いになっていた場合、よくて税関での没収、最悪の場合勾留や逮捕、強制送還をされてしまう恐れがある。

近年ではペットの花粉症も問題となっている。イヌの花粉症は98年に、ネコの花粉症は00年に初めて報告されたとされるが、ヒトの場合と同様、それ以前から存在したと推測される。特にイヌにおいては、ヒトのような鼻症状より毛が抜けるなどの皮膚症状が多く見られ、見た目にも悲惨な状態となることが多いといわれる。

獣医師により検査や治療は可能だが、イヌにおいてはヒトと違って抗ヒスタミン薬が効きにくく、ステロイドに頼らざるを得ないことが多い。重症の場合は減感作治療が行われることがある。ネコにおいては検査も治療も困難であるといわれる。

近年はこうしたペット向けのサプリメント類も販売されるようになってきている。

文科省の第8回技術予測調査によれば、日本において重要な課題の第2位が「花粉症やアトピーなどのアレルギーを引き起こす免疫制御機構や環境要因の解明に基づく、即時型アレルギーの完全なコントロール技術」であり、これが実現する時期は2015年、さらに、それが社会的に適用されるのは2027年であると予測された。


2009年05月30日

パークスの圧力

西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、総攻撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。

正月25日の局外中立宣言後、パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳アーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせるいっぽう、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。

東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという[30]。またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという[31]。このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである[32]。
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ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。そもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。主に3月13日説をとる史料[33]が多いが、14日説をとるもの[34]、日付を明示していないもの[35]もある。しかし、いずれもパークスが先日上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため[36]、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない[37]。となると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。そのため萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている[38]。事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている[39]。パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている

2009年04月27日

大戦期のソ連機械化部隊

ロシア戦車は良く言えば安価で実用性が高く後進国では評判がいいが、悪く言えば乗員の居住性軽視・濁ったペリスコープ・歪んだ照準器・貧弱な無線機など細部の質の低さにおいで先進国では悪評が高い。ただしこれはロシア兵に言わせれば西側戦車のほうが贅沢すぎるといったものであり、その質にたよらない物量作戦はバグラチオン作戦を頂点に、兵員の質を誇るナチス・ドイツ軍を撃退した

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資本主義国が世界大恐慌に苦しんでいた1930年代、隔絶した経済圏を持つソ連は第一次五カ年計画(1928-32)のもと順調に重工業を発展させていた。農業用トラクターの量産技術が生かされ、1930年先駆的な機械化旅団が創設された。
「縦深作戦理論」という、砲兵と航空機の支援の下、歩兵支援戦車が突入し、遠距離行動戦車が敵陣地(縦深)を突破、敵後方に機械化騎兵を展開し包囲すると言う、独自の戦術を編み出していた。
しかし、スターリンにより、機械化部隊の編成を行っていたトハチェフスキー将軍・縦深作戦理論の考案者のトリアンダフィーロフ将軍・参謀として理論の完成に当たったイェゴロフ参謀総長らが粛清されたため、この実験は頓挫することとなった。

ドイツ装甲師団の成功を見たスターリンは態度を改め、1940年29個機械化軍団(2個戦車師団・1個自動車化師団で構成される予定だった)を作ることを決定した。
しかし、独ソ戦開始時点では、戦車の充足率は60%強であり、それも大半が旧式戦車で、新型のT-34戦車は1、200両余り、KV系重戦車は600両余りであった。しかも、機械化を進めた将校の粛清で、戦車部隊運用のノウハウを持つ人材は全く育っていなかった。
また、独ソ戦序盤におけるソ連軍の損害は非常に大きく、戦車不足であったことと大規模な戦車部隊を運用する能力が無いことを自覚したことから戦車師団の編成を断念し、既存の戦車師団も解隊された。

2009年04月10日

クラヴィコード

クラヴィコードはヨーロッパの鍵盤楽器。オルガンやチェンバロ、ピアノなどと並行して、16世紀から18世紀にかけて広く使用された。

概要 [編集]
クラヴィコードは14世紀頃に発明され、1840年代まで製作されつづけた。18世紀中葉から主としてドイツ語圏の国々、スカンジナビア半島およびイベリア半島において全盛期を迎えた。中世のモノコード(モノコルド)に鍵盤機構を付加したものから発達したとする説があるが、確実な証拠は残っていない。

軽い長方形の箱形の木製楽器で、テーブルや専用の台などの上において用いる。1730年代以前に製作された楽器の多数は小さい(おそらく長さ4フィート、幅1フィート、高さ1/3フィート、音域4オクターブ程度)のに対して、後期の楽器は長さ7フィート以上の大きさであり、6オクターブの音域を有していた。

内部構造は単純で、音はチェンバロなどと較べると大きくない。左側に鍵盤、右側に響板が位置し、響板の下の空洞が共鳴箱となる。弦は左側のヒッチピンと右側のチューニングピンの間に張られており、チューニングレバーを用いてチューニングピン側で巻き取って調律する。チューニングピンの手前にはブリッジが配されている。鍵は小さな金属片(タンジェントと呼ばれる)の取り付けられたレバー(てこ)となっており、打鍵するとタンジェントが弦(通常は複弦)を上に向かって垂直に突き上げる。鍵を押している限りタンジェントは弦に触れ続け、この間、タンジェントからブリッジまでの間の弦が振動し、この振動はブリッジを通して響板に伝わる。音量は鍵を叩く強さによって調整が可能である。またピッチもタンジェントが弦に触れる強さを変える事で変化させることができ、この方法によってビブラートをかけることも可能である。

タンジェントの接触によって弦の共鳴長が決定するという構造上、複数の鍵をそれぞれのタンジェントが弦にあたる位置を変えるようにして同一の弦に割り当てることも可能である(モノコードに類似)。こうした楽器は特に「フレッテッド・クラヴィコード」と呼ばれている。この技術によって必要となる弦が少なくなることから、楽器の製作が容易になる。その一方で、1本の弦では一度に1つの音しか出せないため、楽器の能力を限定してしまうこととなる。複数の音が割り当てられる場合、一般には同時に奏でられることが稀な音(例えばハと嬰ハ)が同一の弦に割り当てられるが、これにより例えば半音のトリルなどは演奏が難しくなるのである。結果として、18世紀後半には、各鍵ごとに一対の複弦が割り当てられた、「アンフレッテッド・クラヴィコード」が一般的になった。

オルガン奏者の練習用には、1つあるいは2つの手鍵盤とペダルが付いたクラヴィコードが製作された。電気式ふいごが発明されるまでは、オルガンの演奏に必要なふいごの操作は人力で行われ、多くの労力を要したため、オルガン奏者は練習に多くクラヴィコードを用いていた。そのため、この時期に作曲された「オルガンのための練習曲」は、より正確にはペダル付きのクラヴィコードを意図したものであるとの見解もある。
1400年ごろから1800年ごろにかけて、チェンバロ、ピアノおよびオルガンのために書かれた音楽の多くはクラヴィコードによって演奏することが可能であり、また実際に演奏されていた。家庭用の楽器として多くの音楽家に愛用され、例えばヨハン・ゼバスティアン・バッハの子であるC.P.E.バッハはクラヴィコードの熱心な支持者だった。また、F.J. ハイドンのソナタのいくつかも、当時のドイツ・オーストリアで製作されていた比較的大型のクラヴィコードで演奏されたと考えられる。

19世紀には次第に用いられなくなったが、同世紀末にアーノルド・ドルメッチによって復興された。今日では世界各国にクラヴィコード協会が設立されており、復元製作も盛んである。音量の小ささから現代の大きなホールでの演奏は不可能に近いが、演奏会も各地で行われ、過去70年間において400を超える録音が残されている。

ロックやファンクで使用されるクラヴィネットは、本質的には磁気のピックアップを用いて信号をアンプに送る電気クラヴィコードである。

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2009年03月27日

コンピューターサイエンス

コンピューターサイエンスは、コンピュータのような手段を使った、自動的な情報処理に関心を持っている。少なくとも情報が代入された記号を処理する物理的システムに、関心を持っている。[54] 当初から、プログラマーは、有機体ならば「心」を必要とするような作業を、コンピュータが実行できるようにするプログラムを開発することができた。簡単な例で言えば、かけ算がそうである。しかしコンピュータが心を用いてかけ算している訳でないのは明らかである。いつか、そうしたことができるようになったとしても、我々はそれを心と呼ぶだろうか?この問いは、 人工知能の研究のおかげで、多くの哲学的議論の前線で行われている。

人工知能(AI:artificial intelligence)の分野では、控えめな研究プログラムとより野心的な研究プログラムを区別するのが普通である。この区別はジョン・サール が強いAIと弱いAIという用語を用いて行ったものである。弱いAIの目的は、サールによれば、コンピュータが意識を持つことを試みるのではなく、ただ心的状態のシミュレーションに成功することである。強いAIの目的は、これとは逆に、人が持っているような意識をもつコンピュータを生み出すことである。[55] 強いAIの研究プログラムは、計算機理論のパイオニアの一人であるアラン・チューリングにまで遡る。「コンピュータは考えることができるか?」という問いへのひとつの答えとして、チューリングは有名なチューリング・テストを定式化した。[56]  チューリングの考えでは、一つの部屋にコンピュータが、となりの部屋に人間が入っていて、外からコンピュータと人間の両方に同じ質問をする。第3者がコンピュータと人間の両者を区別できない時には、コンピュータは「考える」のだといってよい。本質的に、チューリングの機械の知能についての考え方は、心の行動主義モデルを継承している。そこでは知性があるとは、知性が行うように振る舞うことなのだ。チューリング・テストは多くの批判を受けてきた。その中で最も有名なものはおそらく、サールによって定式化された 中国語の部屋 という思考実験 である。

コンピュータやロボットが感覚質(クオリア)を持つことができるかどうかという問題は、いまだ手づかずのままである。人工知能の特殊性は「心身問題」を解くことに新たな貢献をすることができると信じるコンピューター科学者もいる。彼らは、すべてのコンピュータにおいて働いているソフトウェアとハードウェアの相互影響に基づいて、心と脳(ウェットウェア)の相互影響を理解するのに助けとなる理論がいつの日か発見されるだろうと言っている。

心理学 [編集]
心理学は、直接的に心的状態を研究する科学である。心理学は一般に、具体的な心的状態:たとえば喜びや恐れ、強迫といった状態について調べるのに経験的方法を用いる。心理学はこれらの心的状態が互いにどのように関係しているのか、また心的状態が人間の器官への入力や出力とどのように関係しているのかについての諸法則を調査研究する。[58]

上記のことを示す一例として、知覚の研究があげられる。知覚研究の分野で仕事をする科学者は、形態の知覚についての一般原理を発見してきた。形態の心理学の法則のひとつは、同じ方向に動かした対象は互いに関連しているように知覚されることを示す。[50] この法則は、視覚的入力と心的な知覚状態との関係を描き出している。しかしこの法則は、知覚状態の「本質」なるものについては何も示してはいない。心理学によって発見された諸法則は、これまでに述べられた心身問題に対する解答のすべてと適合している。

大陸哲学における心の哲学 [編集]
この項目のほとんどの議論は、現代の西洋哲学の中でいわゆる「分析哲学」(時には英米哲学といわれることもある)という有力な学派(スタイル)の業績にしぼって論じられている。[59] しかし他にも、大きなくくりで「大陸哲学」とまとめられる思想の流れも存在する。[59] ともかく、この呼び名の下にはさまざまな学派が総括されているが(現象学や実存主義なども含まれる)、これらは分析哲学とは異なった次のような傾向をもっている。分析哲学が言語分析や論理分析に焦点を合わせがちなことに対して、大陸哲学はより直接的に人間の実存や経験に焦点を合わせることが多い。特に心についての議論に関しても、分析哲学のように言語形式の分析に係わったりせず、思考と経験の概念を直接的に把握しようとする傾向が大陸哲学には強い。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの『精神現象学』において、ヘーゲルは心(精神)の3つのタイプについて区別して議論している。まず「主観的精神」、これは一個人がもつ精神である。次に「客観的精神」、これは社会や国家がもつ精神をいう。最後に「絶対精神」、これはあらゆる概念の統一を意味する。ヘーゲルの『エンチクロペディ』にある「精神哲学」を参照せよ。[60]

現代における、ヘーゲル主義の伝統に呼応してあるいは対抗して発達してきた2つの学派が「現象学」と「実存主義」である。現象学は、エトムント・フッサールによってはじめられ、人間精神の内容に焦点をあて(ノエマを参照)、現象学的過程がいかにして我々の経験を形作るのかに焦点を合わせるものである。[61] 実存主義は、セーレン・キェルケゴールやフリードリヒ・ニーチェの著作に基づく思想であり、経験の内容と心がこうした経験をどのように取り扱うかに焦点を合わせるものである。[62]

あまり知られていないが重要な例として、心の哲学に取り組む哲学者であり認知科学者でもある、両方の伝統を統合しようとしたロン・マクラムロックがいる。ハーバート・サイモンの考えを借り、メルロー=ポンティやハイデガーの実存主義的現象学からも影響を受けて、マクラムロックは、世界内存在("Dasein", "In-der-welt-sein") である人間の条件からして、人はその存在から抽象したやり方や、彼自身をその一部として統合した経験的対象から切り離して分析する方法では、自分自身を理解することができないことを示す。

心の哲学の帰結 [編集]
数え切れないほど多くの主題が、心の哲学で発展してきた考えによって影響を受けている。わかりやすい例で言えば、死やその定義的性質の本質、感情の、知覚の、そして記憶の本質は何か、といった問題である。人が何ものであり、人の同一性は何によって保たれるのかといった問題についても、心の哲学は大いに関係がある。ここでは心の哲学に結びついたうちでも、とくに注意を注がれている2つの主題について述べよう。すなわち自由意志と自己の問題である。[17]

自由意志 [編集]

心の哲学の文脈において、自由意志の問題は新たな重要性を持つようになった。このことは、少なくとも唯物論的決定論者にとって重要である。[17] 決定論者の立場からすれば、自然法則は完全に物質的世界の行く末を決定する。心的状態は、そして「意志」についてもまた、なんらかの物質的状態であるだろう。このことが意味するのは、人間の行動や決定が完全に自然法則によって決定されるということである。この論法をもっと先に進める者もいる。すなわち、人々は自分自身では、何を欲し何をするか決定することができない。結局のところ、人々は自由ではない
一方で、両立主義者(compatibilists)は、上記の議論を拒否する。この立場をとる人々は次のように言う。「我々は自由か?」という問いは、我々が自由という語の意味を何にするか決定する場合にのみ答えることができる。自由であることの反対は「原因がある」ことではなく、「強制される」または「強要される」ということである。決定されていないというだけでは、自由であるというに十分ではない。自由な行為は、行為者がもし他のことを選んだとしたら、他の事をするのが可能だった場合にのみ、存在する。この意味で、人は決定論が真である場合でさえも自由であり得るのだ。[65]  哲学史上、最も重要な両立主義者はデイヴィッド・ヒュームである。[66] 今日、両立主義の立場は、たとえばダニエル・デネットによって擁護されているし、[67] 二元的パースペクティブの立場から擁護する人にマックス・ヴェルマンがいる。

他方で、非両立主義者(incompatibilists)の中にも、自由意志を否定する議論を拒否する者たちが大勢いる。彼らは起因主義(originationism)と呼ばれるより強い立場で、意志の自由を信じている。[65] これらの哲学者たちは世界の行方は自然法則によって完全には決定されないと主張する。少なくとも意志が決定される必然はない、それゆえに意志は潜在的に自由である。哲学史上、最も有力な非両立主義者はイマヌエル・カントである。[69] 非両立主義の立場に対する批判者は、非両立主義者が自由の概念を場合に応じて変えて用いていると批判している。批判者の主張は次のとおりである:すなわち、もし我々の意志が何かによって決定されないならば、我々はまったく偶然に自分が何を望むかを望むだろう。そして我々が望んだものが純粋に偶発的なものであるならば、我々は自由ではない。つまり、もし我々の意志が何かによって決定されないのならば,我々は自由ではないのだ

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2009年03月11日

ショチカルコの商工業

ショチカルコには、5カ所の黒曜石の工房が確認され発掘調査が行われた。そこで作られた黒曜石製品はショチカルコで供給されたのみならず周辺地域にももたらされた。黒曜石の工房のうち四つは内部に設けられているか近くに居住区を控えていた。残り一つはセロ・ショチカルコの南側部分の小さなプラザの中にあって、交易で商品を供給するために機能していたと思われる。在地産の土器や石器の大部分はショチカルコの中核部分で造られたのではなく石材や粘土が近くにある工房で生産されたものが使われていると考えられる。ショチカルコがモレーロス州周辺でいかに重要なセンターだったかは長距離交易によってでなければもたらされない製品が多量に発見されることからうかがえる。交易品には大西洋や太平洋産の貝製品、メキシコ湾岸からもたらされた球戯に用いる道具類、プエブラ州産の大理石製容器、ミチョアカン州やイダルゴ州産の黒曜石製品、ゲレロ州やオアハカ州産の石彫やひすい製の石偶、メキシコ州やゲレロ州産の外来土器などが含まれる。モレーロス州西部というショチカルコの立地は太平洋岸からバルサス川を遡ってメキシコ中央部にいたる交易路を制御するのに都合が良かったと考えられる。ショチカルコは同時代にメソアメリカに存在し活動していた集団と強い関係があった。そのことはショチカルコから出土するさまざまな地域、ときおり遠距離の地域から持ち込まれる遺物からうかがうことができる。例えば貝は太平洋岸やメキシコ湾岸産であり、黒曜石はミチョアカン州からのものである。トルコ石はメキシコ北部から土器やその様式はマヤ地域からのものがみられ、暦の文字はオアハカ州からのものがみられる。それ以外にも多くの要素がみられ分析、研究の途上にある。

ショチカルコの滅亡
900年前後にセロ・ショチカルコの山頂にある公共建造物は焼かれて略奪を受けた。層位的な発掘調査によって古典期終末期の住居の床面が発見され、斜面にあった居住区も破壊され、突然放棄されたことが明らかになった。おそらく、地域的な暴動ないし反乱もしくは軍事的な征服を受けて壊滅的な破局を迎え突如として放棄されたと考えられている。

発見、復元と研究史
初めてショチカルコのことが記録されたのは、1777年に探検家のAntonio Alzateによってであった。その後、アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt)が1810年に図版を盛り込んだ刊行物を刊行している。メキシコ皇帝マクシミリアンがこの遺跡を訪れている。その後、レオポルド・バドレス(Leopoldo Batres)によって羽毛のヘビの神殿が初めて発掘調査された。バドレスは1909年に保存工事を行い彼のおかげで建物の外面が保存され今日でも見ることができる。ショチカルコの遺構プランの平面を図化するプロジェクトが行われた際にセロ・ショチカルコの古典期終末期の都市中核部と斜面の遺構の遺存状態が良好であることが判明した。このことはショチカルコの周囲が農業を行うのに適した土地から外れていたことで古典期終末期に放棄されて以来ごくわずかな人々しか住まなかったことを示していた。後古典期も植民地時代を経過してもほとんど荒らされなかったことで1922年に遺跡の保存地区に指定されてからも遺跡の保護が容易になった。
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1940年代から60年代にかけてメキシコ政府の研究機関や多くの考古学者によって発掘調査や建造物の復元が行われている。1999年にユネスコの世界遺産に登録された。

最近では、日本の京都外国語大学の大井邦明教授が、さまざまな言語集団があつまったという伝説上のタモアンチャンというのはショチカルコのことであって、ショチカルコの勢力こそがテオティワカンを倒したと主張している[7]。状況証拠として「羽毛のヘビの神殿」のレリーフや象形文字が前項で記述したように折衷的な形態であること、『クワウティトラン年代記』にある歴史が始まったとされる「一のウサギの年」を刻んだ石碑があることなどを挙げている。しかし、大井教授がショチカルコ文化の特徴のひとつと位置づけているコヨトラテルコ式土器については、ケネス・ハースとA.サイファースによるとショチカルコの土器は、コヨトラテルコ式ともテオティワカンの終末期のメテペック式とも異なる独自のものであると述べている

2009年02月23日

ミン東語

閩東語(びんとうご、ミントンご、福州語: Mìng-d??ng-ng?? ミントュングー、中国語 閩東話 Mǐndōnghuà)は中華人民共和国福建省福州市から福鼎県までの同省北東部(閩東地方)と、さらに北側の浙江省東南部にかけて使用されている言語である。中でも福州語が閩東語の代表的な方言とされる。中華民国(台湾)が実効支配する連江県の馬祖列島も含まれる。
プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

このほか、閩東地方からの移民がいるインドネシア、ブルネイ、マレーシアやシンガポールでも使用者がいる。さらに米国では閩東地方からの移民が増加しており、ニューヨークの中華街では福州語がかなり通じると言われる。また、日本には福清市からの滞在者が多くおり、これらの中国国外を含めると、1千万以上の使用人口がいると思われる。

下位分類
閩東語は、地理的、歴史的な要因から、次の3つの下位方言に別れる。

福州語:分布地域から南片とも言われる。福州、閩侯、永泰、閩清、長楽、羅源、連江、福清、平潭、屏南、古田の11市県が含まれる。詳しくは福州語の項を参照。
福安語:寧徳語とも言われる。分布地域から北片とも言われる。福建省東北地方の交溪・霍童溪流域およびその付近の地域で使用されている。福安、福鼎、霞浦、寿寧、周寧、寧徳、柘栄などの7市県が含まれ、使用人口は200万人程度である。寧徳の福安語には、すでに福州語の影響を受けた痕跡が見られる。
蠻講:蠻話ともいう。浙江省東南部の泰順県、蒼南県およびその付近で用いられている。音韻や語彙上、浙南呉語(甌語、温州語)の影響を強く受けて変質しており、福建省内の閩東語とは音韻体系や語彙が大きく異なる。例えば、蒼南県の銭庫では、声母が29、韻母が39、声調は7となっており、温州の温州語の声母29、韻母34、声調8に近づいている。

発音
蠻講を除いた、福建省の閩東語内において、声母は比較的一致しており、15種類が用いられる。ただし、福安語には、[w]と[j]の半母音があり、17種類となる。北京語と比べると、有気音と無気音が逆になる例が多く、そり舌音の/r/[?]が/n/などに、/zh/[t?]が/d/[t]に、/ch/[t??]が/t/[t?]になる例が多く、/sh/[?]や/s/[s]は/t/や/d/になる例が多いという特徴がある。

これに対して韻母は寧徳の69種から福鼎の41種まで複雑さに差があるが、代表的な福州語は46種と中間に位置する。寧徳は韻尾で/m/と/ng/、/p/と/k/を区別する点が、区別がなくなっている福建省の他の閩東語と異なる。

声調は7種で一致しているが、福清方言と寿寧方言では、陰入声字の一部が陰去声になり、また、福清方言は陽入声字の一部が陰平声になっている点でも他地域と異なる。

閩東語の音韻数対照表 分類 福州語(南片) 福安語(北片) 蠻講
地点 福州 福清 古田 寧徳 福鼎 福安 蒼南銭庫
声母数 15 15 15 15 15 17 29
韻母数 46 42 51 69 41 56 39
声調数 7 7 7 7 7 7 7

語彙
一般の方言と同様に、各地共通の語彙と地方により異なる語彙がある。一例を表に挙げる。

語彙対照表 分類 福州語(南片) 福安語(北片) 蛮講 北京語 日本語
地点 福州 福清 古田 寧徳 福鼎 福安 蒼南銭庫 北京 東京
漢語共通 鷄 鷄 鷄 鷄 鷄 鷄 鷄 鷄 鶏
閩語共通 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄蛋・鷄子兒 鶏卵
箸 箸 箸 箸 箸 飯箸 箸 筷子 箸
閩東でほぼ一致する語 乇 乇 乇 乇 乇 乇 物事 東西 物
郎爸 郎爸 郎爸 郎爸 郎爸 阿爹 阿爸 爸、爸爸 父ちゃん
南北差のある語 我各儂 我各儂 我各儂 我儕儂 我儂 吾儕 我儕老、我們 我們 俺たち
豉油 豉油 豉油 豆油 醤油 豆油 醤油 醤油 醤油
各地が異なる語 猪角 猪角 牯猪 施猪 牯猪、公猪 牯猪 猪角 公猪 雄豚
糞坑厝 糞坑厝 坑厝 糞池頭 屎坑 灰楼 茅坑 厠所、茅房 便所

2009年02月06日

アイマラ (Aymara)

アイマラ (Aymara) とは南アメリカのボリビア、ペルーやチリのアンデス地域に住む先住民族(インディオ)および、彼等の用いる言語の名前。本稿では主に民族について述べる。言語についてはアイマラ語を参照されたい。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

アイマラ族はボリビア、ペルーのチチカカ湖周辺、およびチリやアルゼンチンの一部に住む。人口はおよそ300万人といわれている。

アイマラ族の歴史については、さまざまな説がある。一説では、アルティプラーノの代表的な遺跡であるティワナク遺跡(紀元前後頃から紀元後12世紀頃)の主な担い手だったという説があり、他方で、紀元12世紀頃にティワナク社会が崩壊したあと、チリやペルー南部の海岸部から北上してきたという説もあり、やがて彼らが現在のペルー領にルパカ王国 (Lupaqa) を、ボリビア領にパカヘ王国 (Paqaje) などのアイマラ諸王国を築いたという説がある。このルパカ王国は、在来のウルあるいはプキーナ語族の人々を圧迫し、チチカカ湖沿岸を支配するに至ったという説がある。チチカカ湖周辺はかつて、ウルコスーユ (Urcosuyu) と呼ばれていた。

サンプルは少ないものの、ミトコンドリアDNA (以下、mDNA) による分析で、現在のアイマラ族とチリ北部にあるサン・ペドロ・デ・アタカマから発見されたミイラから採取したmDNAが近いという調査結果もある。同じく、ティワナク遺跡出土の人骨から採取したmDNAはアマゾン先住民に近く、アイマラ族とはやや離れるという説もある。これもサンプル数が少ないため確証にはいたっていない。さらに、言語の系統から、リマ東方の山間部がアイマラ語族の故地という説もある(後述)。

いずれにせよ、歴史上、確実にアイマラ族がチチカカ湖沿岸に現れるのは、ティワナク社会崩壊後の紀元後13世紀頃からである。この時期には、アイマラ諸王国(ルパカ、パカヘ、コリャなど)がチチカカ湖沿岸に割拠していたといわれている。ただし、コリャ王国に関しては、ウル-プキーナ語族系統という説もある。しかし、これらの記録は、インカ帝国崩壊後の、スペイン人征服者たちの記録によるものであり、内容は整合性を持たない部分も多い。

彼らアイマラ諸王国は、現在のペルー南部の河谷、モケグワ川などに飛び地を持っていたことが、スペイン人による記録文書に記されている。現在ではチリ領になった地域にも飛び地があったため、現在では本拠地のアルティプラーノとは分断されてしまったところもある。同時に、コチャバンバにも飛び地を持っていたらしい。飛び地では、アルティプラーノでは栽培できない植物、たとえばトウモロコシやコカなどを育て、さらに樹木も伐採していたらしいことがスペイン人によって記録されている。 

インカ帝国が興ったとき、チチカカ湖周辺にはアイマラ族の王国が割拠していた。インカはその諸王国の争いに乗じて各王国を併呑していった。しかし、インカ帝国内における一定の権利をアイマラ族たちは保持していたといわれている。また、こういった関係から、ケチュア語にはアイマラ語からの借用語が多い。

スペイン人による征服後、アイマラ族は1781年にトゥパク・カタリを中心として植民地政府に対して戦いを起こしている。しかし、最終的に反乱としておさえ込まれ、トゥパク・カタリは捕らえられ処刑される。1970年代に盛んになったトゥパク・カタリ運動の名称は、この歴史事実に由来する。

現代
国境を越えたアイマラ族としての帰属意識(国境を超えての同一集団、同一民族としてのアイデンティティー)は薄い。これはケチュア族などと同様、アンデス先住民に見られる特徴である。

ただし、2004年に「国境なきアイマラ (Aymaras sin Fronteras) 」という運動が起こるなど、国境を越えた形でのアンデス中央高地南部に広がるアイマラ・アイデンティティーを広げようとする動きも、一部ではあるが現れつつある。国境沿いにあるアイマラ族の村々やと隣国にあるアイマラの村とのつながりなどを通して、アイマラのアイデンティティーの復権、仲違いしていたアイマラ同士の和解、国境を越えたアイマラ族の統合などを訴えている。しかし、今回は、ボリビア国内政治に対する戦略的要素が強く、今後の動きが注目される。

ボリビアの先住民、特にアイマラ族は、政府のあるアルティプラーノに多く居住することもあり、近年、政治的発言権を大きくしつつある。ただし、以前はある程度おおきくまとまっていたのに対して、最近では、労組などを支持母体とする政治集団の力は分散されてしまっている。そのため、道路封鎖などの抗議行動でも、その参加をめぐって意見がわれることがしばしば見られるようになってきている。それでも、近年、ボリビアではラパス県を中心に、アイマラ族の人たちは政治的な力をつけてきており、2000年にはラパス市を包囲する事態にまで至っている。2003年から2005年に発生したボリビアガス紛争では、エル・アルト住人やアイマラ族たちの運動が非常に激しさを増した。

ボリビアに住むインディオやメスティーソには、ママニ(Mamani)やキスペ(Quispe)という名字の人が多いが、これらの名字はアイマラ族やケチュア族に由来するとされる。現在は、都市部などではケチュアやヨーロッパ人との混血がきわめて進んでいるが、これらの苗字によって出自がわかることが多い。また、現在よりもインディオに対する差別や偏見が強かった時代においては、アイマラ族由来の名字を嫌って、ヨーロッパ風の名字に変えてしまった人も多かった。たとえば、QuispeはQuisbertといったスペイン風の名前に変えていった。

キリスト教が浸透するよりも前のアイマラ族の人たちは、死んだ人は神になると考えていた。また、各人の墓が作られ、身分によって墓のグレードが違っていた。さらに、山や木、岩などに神が宿るという、いわゆる八百万の神のような考え方を持っていた。

このように多神教であったが、最も信仰を集めていた神はトゥヌパ (Thunupa)とパチャママ (Pachamama)であった。トゥヌパは自然現象を司っており、パチャママは大地を司っていたとされる。パチャママは現在でも広く信仰され続けている。

アンデス地方のフォルクローレの主要な楽器の一つであるサンポーニャは、アイマラが起源であると考えられている(注:ノート:アイマラ参照)。サンポーニャはアイマラ語では「シク (sikuまたはsicuまたはsiqu)」と呼ばれ、サンポーニャを吹いて踊る人を「シクーリ (sikuri)」と呼んだ。スーリシクーリの項も参照されたい。

2009年01月22日

良心的兵役拒否

良心的兵役拒否(りょうしんてきへいえききょひ、英:conscientious objection)とは国家組織の暴力、とりわけあらゆる形態ないしは特定の状況下の戦争に参加することや義務兵役されることを望まないこと。当人の良心に基づく信念であり、拒否した者を良心的兵役拒否者(conscientious objectors=コンシェンシャス・オブジェクター、略してCO's)という。

良心的兵役拒否は宗教の信条に基づくものが多くを占めるが、民族(トルコにおけるクルド人など)や、政治的、哲学的な背景に基づくこともある。また、政府の外交・軍事政策に反対して拒否する者もいる。

良心的兵役拒否を行う者は義務兵役年齢に達した時点で兵役忌避を申請するのがほとんどだが、軍務中や戦争中に兵役を中断して拒否する場合もある。

良心的兵役拒否は強制的な兵役を導入した時から存在しているが、初めて合法的に認められるようになったのは、21世紀の直前のことであった。

良心的兵役拒否者は、かつて、国賊、売国奴、非国民、脱走兵、反逆者、臆病者、のろま等々、屈辱的な言葉で罵倒・侮蔑され、死刑に処される(エホバの証人とホロコーストを参照)など、ありとあらゆる差別・抑圧・迫害を受けてきた。「死にたくない」という自然で素朴な本能的欲求に従って軍務を離脱した数多くの人間が軍法会議で死を宣告された。第二次世界大戦時に後方部隊への異動を願い出たものの、却下されて脱走を図ったアメリカ兵エドワード・スロヴィクが銃殺刑に処された事件はその例のひとつである。

しかし、欧米においては、ここ数十年のうちに急激な変化がみられる。現在良心的兵役拒否権は国際連合やヨーロッパ評議会 (CoE) のような国際機関では基本的人権として認知され、推奨されている。その理論的支柱となったのが基本的人権の「良心の自由」の思想であった。

良心的兵役拒否者が代替条件で市民労役を命じられている国では、徴集兵と同様、労役は社会貢献をしていると解釈されている。同時に、兵役拒否者数に上昇もみられている。ドイツでは良心を理由に兵役は拒否出来ることが法律で定められており、その代わり13ヶ月間の社会福祉活動が義務づけられる。同国では、「良心的兵役拒否者」数が2003年(平成15)には兵役につく者の数を上まわり、老人介護等の社会福祉事業は、これらの「民間奉仕義務(Zivildienst)」なしには成立し得ないと言われている。

一方、多くの国々で良心的兵役拒否権に法的基盤がないのも事実である。外務省やCIA World Fact Bookの資料によると、現在の地球上では、軍隊または国防のための武装組織を保有する約170か国のうち約67か国に徴兵制度が存在するが、そのうちの30カ国しか法的な対策を取っておらず、そのうちの25カ国はヨーロッパ諸国が占めている。ギリシャ、キプロス、トルコ、フィンランド、ロシアを除くヨーロッパの徴兵制度を持つ国は、多かれ少なかれ良心的兵役拒否に関する国際的指針を満たしている。

ヨーロッパ以外の多くの国、とりわけ戦闘激化地域(イスラエル/パレスチナ、コンゴ)では、現在でも良心的兵役拒否は死刑など厳罰となる(ただし、イスラエルでは女性のみ良心的兵役拒否が可能)。

歴史的な進展
米国ではもともと、南北戦争(1860年 - 1865年)の時代から良心的兵役拒否を認めており、第一次世界大戦では「宗教的兵役拒否」という言葉も生まれた。これらの背景には、教理上、戦争を否定するブレズレン(フレンド派)、メノナイト、クエーカー(友会)など「平和教会」と呼ばれる教派の存在がある。キリスト教の中では少数派の「平和教会」は、非暴力と非戦主義に関して社会に大きな貢献をした。第二次世界大戦中、全米で1万2千人が兵役を拒否し、兵役の代替業務である市民公共サービス (CPS) に従事した。そして「平和教会」を中心に、拒否者を支える全国支援会議が組織され、経費や業務の面で政府と協力してCPSの制度が実施されていた。

良心的兵役拒否の現代における思想は、「すべての者は神の御前で個々の行動に対して責任を負う」というプロテスタントのキリスト教信仰に起源を有している。それゆえに最初の拒否法の規定が、1900年にキリスト教のプロテスタント教国のノルウェーで紹介されたことは驚くべきことではない(デンマークとスウェーデンが1917年と1921年に後に続いた)。続く20数年の間に、ヨーロッパの他のプロテスタント教国も徐々に信者が良心的兵役拒否をする権利を認めるようになった。カトリック教国では個人の罪や国家に対する忠誠に関わる、異なる見解ゆえに、50年を経て1963年にフランスやルクセンブルグで始まった。

冷戦下の欧州で、西側諸国での良心的兵役拒否者の立場は認められたが、多くの東側諸国はレーニンの意見を無視し良心的兵役拒否を認めなかった(東ドイツやソビエト連邦では事実上、良心的兵役拒否が認められていた)。冷戦終結後には、多くの東欧諸国が良心的兵役拒否を認めるようになった。

特殊なケースとして挙げられるのが正教会の伝統を持つギリシャである。ギリシャには伝統的に道徳的義務として国家に対する国民の不滅の忠誠と「正当防衛」がある。ギリシャは良心的兵役拒否と代替労役に関する法を有するヨーロッパの数少ない国の一つである。最近のヨーロッパで良心的兵役拒否の権利を認めたのは2003年のセルビア・モンテネグロが挙げられる。

ドイツは徴兵制廃止論が活発化している。少子化の進行による18歳人口の減少によって、「平等な負担」が貫徹できなくなったことも原因だ。2010年末までに、18歳人口の23%しか召集されない計算になる。兵役義務は、「同年齢の男性が平等にこの義務を果たす」ことが建前である。これを「防衛公平」(Wehrgerechtigkeit)という。兵役拒否者は、代替役務という福祉や救急などの仕事に就く。これで兵役を果たしたものとみなされる。1970年には18歳人口の40%が兵役に、25%が民間役務に就き、35%は何にも就かなかった。兵役に就く割合は減少を続け、現在20%前半に落ち込んでいる。平等な負担が貫徹できず、2割しか義務を果たさないのでは、もはや「一般」兵役義務と言えない。ヴァイツゼッカー元大統領を長とする防衛改革委員会は、3万人の基本兵役者を確保する「選択的徴兵制」を提言した。高報酬が約束された、限りなく志願制に近い構想である。現在、連邦議会の5会派中3会派が徴兵制廃止の立場に立っている。社民党(SPD)でも、複数の州議長が兵役義務廃止を公然と主張した。そうしたなか、連邦憲法裁判所が兵役義務を合憲とする決定を下した。33歳になる一人の兵役拒否者の事件である。旧東独ブランデンブルク州に住むこの男性は、旧東独時代に兵役拒否し、代替役務の「建設部隊」勤務も拒否した。さらに統一後、ドイツ連邦軍に召集されたが、良心的兵役拒否の手続をとり、これが認められると、民間役務(代替役務)に就くことも拒否した。福祉現場で働いても、それは兵役義務の「代替」にほかならないというのが理由である。この種の人々を「全体拒否者」(Totalverweigerer)という。全体拒否は違法で、懲役か罰金が科せられる。男性は起訴され、一審のポツダム区裁判所は1500マルクの罰金を言い渡した。男性はブランデンブルク州裁判所に控訴。州裁判所は99年、兵役義務法は「変化した政治的諸条件のもとではもはや合憲でない」と確信するに至ったため、訴訟手続を中断し、憲法裁に対して、合憲性に関する意見提示決定(Vorlagebeschluss)を求めた。州裁判所は、「ドイツは1994年8月に最後のロシア軍部隊が撤退したことにより、脅威にさらされていない」のであって、兵役義務制は基本権に対する「比例原則違反の侵害」を構成するに至ったという。そして、憲法裁は兵役義務を合憲とし、州裁判所の意見提示を「許されない」として退けた。決定は、従来の判例は兵役義務を合憲としてきており、改めて比例原則に即して判断する余地はないと指摘。さらに、州裁判所が「兵役義務を維持する他の諸理由が存在することを看過している」として、その例としてNATOの同盟義務を挙げる。そして、立法者には兵役義務制か志願制かについて開かれた選択肢があり、それは、防衛政策的観点からだけでなく、経済・社会政策的な理由もさまざまに評価・考量しながら行われる国家政策的決断であるとしている(1978年憲法裁判決参照)。憲法裁が、立法者には志願制への選択肢も開かれていること、兵役義務廃止も立法者のフリーハンドであることを確認したことは実に政治的である。他方、福祉施設はツィヴィ(Zivildienst)と呼ばれる民間役務者によって支えられているから、兵役が廃止されると民間役務者がいなくなり、福祉施設は存立の危機に陥る。兵役廃止問題は、安全保障問題にとどまらない、国家・社会的問題であるというのはそういうことを含意してのことだろう(ただ、福祉分野を「代役」によってでなく、若者に一定期間担わせる「本役」〔一般役務義務〕構想もある)。

第二次世界大戦中、良心的兵役拒否は、とりわけナチス・ドイツ占領下のヨーロッパにおいて反戦とレジスタンスの危険な形態の一つであった。日本においても、灯台社の明石順三が兵役を拒否して、特別高等警察に逮捕・収監された。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

徴兵制度のある大韓民国においては2004年に良心的兵役拒否者が地方裁判所では無罪になったが、最高裁判所・憲法裁判所で有罪の判決を受けた。かつて韓国での兵役拒否者は、エホバの証人の信者に限られたが、現在は、02年2月に30の市民団体で構成された「良心的兵役拒否権と代替服務制のための連帯会議」なども結成されている。また、国防部の発表によると、現役ではなく公益勤務要員、作業機能要員および専門研究要員、義務警察官、戦闘警察官、海洋警察、警備矯導隊、義務消防隊など約6万人に及ぶ代替服務制度も段階的に縮小して廃止し、重症の身体障害者を除いてはボランティアの形で服務する社会服務制を導入する方針。ちなみに、韓国での兵役法違反者の量刑は、懲役1年6ヶ月が相場である。詳しくは、韓国軍の項目の良心的兵役拒否の実態の欄を参照。

台湾では民進党が政権を握ってから、良心的兵役拒否が合法化・制度化されており、介護・医療・消防・警察などの代替役務をこなすことで兵役を果たしたと見なされるようになっている(参考:代替役)。

トルコでは、19歳から40歳までの男子に、15ヶ月の兵役を義務付けている。良心的兵役拒否権が法的に認められておらず、兵役拒否者に代替役務を定める法律がないことをアムネスティは懸念している。1987年4月9日に発表された、良心的兵役拒否に関する欧州評議会閣僚委員会の勧告No.R(87)8では、「徴兵制度に服すべき者で、良心的理由から拒否する者は、そのような役務に服する義務から解放される権利を有する。そのような者は、代替役務に服することがある」としている。通常、兵役拒否者は刑事起訴され、投獄される。イスタンブール(Istanbul)で2006年7日、著名な作家、erihan Magden氏の裁判が行われた。Magden氏は記事の中で、軍隊に対し、良心的兵役拒否者の権利を認め兵役義務を免除するよう要求したとして起訴されている。同裁判によりトルコは、表現の自由への遵守義務に反するとして欧州連合(EU)から批判を受けている。一方、国内では国家主義者らがMagden氏を、トルコ軍の宿敵、クルド人武装組織の「仲間」であるとして抗議活動を行った(参考:AFP「良心的兵役拒否を支持する記事で著名作家起訴」)。また、2007年10月4日に、エンバー・アイデミールは、兵役拒否による不服従の容疑で法廷に立った。エンバーは2007年7月31日から、エスキシェイル軍事刑務所に拘束されている。アムネスティは彼を良心の囚人であるとみなしている。彼の父親によると、エンバーは宗教上の信念に基づき兵役を拒否する旨の嘆願書を当局に提出したという。エンバーは、逮捕後10人の兵士から身体に虐待を受け、無理やり軍服を着せられたと主張している。彼はそうした圧力にもかかわらず、軍の任務にはつかないという確固たる意思を貫いている。彼は兵役に代わる民間の役務には進んで服するつもりである。「トルコ政府はエンバーが兵士から虐待を受けた件を、公平かつ即座に徹底的に調査し、責任者を裁判にかけるべきである」とガードナー調査員は述べた。アムネスティは、トルコ政府に対し、良心的兵役拒否者に対する刑事訴追を即時に取りやめ、良心的兵役拒否者たちのために、欧州や国際社会の基準と勧告に沿った民間の代替役務を設けるよう「エンバー・アイデミールに対する起訴を取り下げれば、トルコ政府は国際的な人権基準を遵守する用意があることを示すことになる。刑事訴追は良心的兵役拒否の解決策ではない。」と要請した

2009年01月15日

抗不安薬(こうふあんやく、minor tranquilizer,antianxiety drugs)

天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

抗不安薬(こうふあんやく、minor tranquilizer,antianxiety drugs)は、マイナートランキライザーとも言い、精神疾患に使われる向精神薬の一種である。弱い安定剤と言われている様に抗精神病薬と呼ばれるメジャートランキライザーと比べても作用や副作用は弱い。

抗不安薬には、脳神経に作用し、不安(恐怖)・緊張といった症状を緩和させる作用がある。睡眠時の緊張を緩和させる事から睡眠薬として利用される場合もある。パニック障害、不安障害、ストレス障害(PTSD、急性ストレス障害)など不安をともなう疾患に多く利用されている。また、症状によっては内科などでも処方され、手術の麻酔前に投与されることがある。

現在、日本国内において一般的に利用される抗不安薬は、ベンゾジアゼピン系とチエノジアゼピン系に分類されるものがほとんどである[1]。

ベンゾジアゼピン系は以前によく使われていたバルビツレート系に比べ安全性が高く、副作用も比較的少ない。しかし、乱用すれば依存性が生じる恐れがあるため専門医による処方が必要である。

短時間作用型
エチゾラム(商品名:デパスなど)チエノジアゼピン系。睡眠薬として出される場合もある。
クロチアゼパム(商品名:リーゼなど)チエノジアゼピン系。
フルタゾラム(商品名:コレミナール)ベンゾジアゼピン系。
トフィソパム(商品名:グランダキシンなど)ベンゾジアゼピン系。
中時間作用型
ロラゼパム(商品名:ワイパックスなど)ベンゾジアゼピン系。
アルプラゾラム(商品名:ソラナックス、コンスタンなど)ベンゾジアゼピン系。
ブロマゼパム(商品名:レキソタン、セニランなど)ベンゾジアゼピン系。
長時間作用型
クロキサゾラム(商品名:セパゾン)ベンゾジアゼピン系。
フルジアゼパム(商品名:エリスパン)ベンゾジアゼピン系。
ジアゼパム(商品名:セルシン、ホリゾンなど)ベンゾジアゼピン系。
クロナゼパム(商品名:ランドセン、リボトリール)一般的には抗てんかん薬として使われる。
メダゼパム(商品名:レスミットなど)ベンゾジアゼピン系。
クロラゼプ酸二カリウム(商品名:メンドン)ベンゾジアゼピン系。
クロルジアゼポキシド(商品名:コントール、バランスなど)ベンゾジアゼピン系。
オキサゾラム(商品名:セレナールなど)ベンゾジアゼピン系。
メキサゾラム(商品名:メレックス)ベンゾジアゼピン系。
超長時間作用型
プラゼパム(商品名:セダプラン)ベンゾジアゼピン系。
ロフラゼプ酸エチル(商品名:メイラックスなど)ベンゾジアゼピン系。
フルトプラゼパム(商品名:レスタス)ベンゾジアゼピン系。
その他
クエン酸タンドスピロン(商品名:セディール)アザピロン系 セロトニン5-HT1A受容体作動薬

副作用
大半の抗不安薬はベンゾジアゼピン系であるために、ベンゾジアゼピン系特有の副作用がある。比較的安全と言われているが、アルコールとの併用は奨められておらず、ベンゾジアゼピン受容体の作用でベンゾジアゼピン健忘を引き起こす副作用がある薬剤もある。眠気を誘発するため、自動車の運転などと言った危険を及ぼす作業などは避けるべきである。また長期の服用で依存や急な断薬による離脱症状を起こす場合があるため注意が必要である。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬でまれにうつ病を悪化させることがある。