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パークスの圧力

西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、総攻撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。

正月25日の局外中立宣言後、パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳アーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせるいっぽう、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。

東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという[30]。またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという[31]。このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである[32]。
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ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。そもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。主に3月13日説をとる史料[33]が多いが、14日説をとるもの[34]、日付を明示していないもの[35]もある。しかし、いずれもパークスが先日上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため[36]、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない[37]。となると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。そのため萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている[38]。事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている[39]。パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている

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2009年05月30日 13:32に投稿されたエントリーのページです。

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